昨年11月に公開された映画「アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール(原題:The Music of Silence)」をご覧になった方はどれくらいいるでしょうか?
この手の映画は最近増えている様で、音楽の授業でも習う様なベートーヴェンなどの音楽家が映画化されているだけでなく、もっとポップ寄りなアーティストの映画も増えてきました。
イギリスのロックバンドQueenのボヘミアン・ラプソディなど物凄い話題になっていましたし、昨年はエルトン・ジョンのロケットマンなども公開、その他ボン・ジョヴィは断ったらしいですがオファーがあったと言う話もありますし、伝記映画とはちょっと違いますが、ドキュメンタリー寄りでメタリカの映画も撮影されるとかなんとか…。
そんな中、ちょっとオペラやクロスオーバーとなると、海外ではそれなりにシェアがあるものの、日本では凄くマイナーなジャンル。
アンドレア・ボチェッリの映画も公開されたら映画館へ見に行くつもりだったのですが、なんと地元周辺の映画館ではそこそこ大きな映画館でさえ放映されておらず、最寄りの映画館でも高速道路をぶっ飛ばして片道3時間は掛かる様な距離。
世界的に有名なテノール歌手ですし、今年はミラノの大聖堂で行った無観客コンサートのライブ中継で史上最大の同時視聴数を記録して話題になるなど、間違いなく世界的な人気は揺るぎないはずなのですが、日本ではこれほどまでに扱いが酷いのかと驚かされます。
こちらがアンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール。
アンドレア・ボチェッリは以前にも紹介していますが、イタリアのトスカーナ地方出身のテノール歌手で、幼い頃に失明しています。
私が記憶しているのは、当時弁護士の仕事をしながら夜のバーで歌っていたボチェッリを、ロックスターのズッケロが見付け、一緒に歌って作成したデモテープをルチアーノ・パバロッティに聴かせたところから彼の歌手人生がスタートすると言うものだが、自伝を基に作られたこの映画では、ズッケロの依頼でコンサートにゲスト出演して有名になると言った流れなので、後者の方が正しいのかもしれない。
かなりサクサクと進む映画で、省かれている部分も多い印象なので、ただ単に解釈の違いによるものかもしれないので何とも言えないところだ。
実際、ボチェッリの歌声に感銘を受けたパバロッティの口利きでSugar Recordsと契約を結び、1994年にデビューアルバム「Il Mare Calmo Della Sera」を発売してイタリア国内での知名度が急上昇したはずだからだ。
映画の中では幼少期に音楽の大会で優勝した設定だが、実際にはデビュー同年の1994年にサンレーモの音楽祭で優勝し、この時点でイタリア国内では誰もが憧れる歌手となっている。
そして後に、1997年発売の「Romanza」で2000万枚を記録する世界的な大ヒットを飛ばし、史上最も売れたイタリア人歌手としての地位を確立する。
これがアンドレア・ボチェッリ伝説の「実話」である。
まあ、映画だからね。美化してる部分があるのは仕方ないよね。って思うところだろうが、実はそうではない。逆である。
この映画は開始直後にボチェッリ本人が登場し、何やらブツブツと前置きを語り始める。
アモスと言う名前が好きだの、バルディと言う姓はトスカーナ地方ではポピュラーな名前だのと言ったくだりだ。
この物語の中では、アンドレア・ボチェッリの名前は登場せず、アモス・バルディと言う偽名が主人公の名前となる。
勘違いしないで頂きたいが、アモス・バルディはボチェッリの本名ではない。
アンドレア・ボチェッリがそのまま本名である。
まず、ここで偽名にした理由はボチェッリ本人にしかわからない事であるが、自分の物語と言う点に照れ隠しをしているのだろうか。
そして物語は幼少期の暮らしから、失明するまでの経緯、その後の音楽活動、挫折、そして再び歌手を目指すと言った流れが語られるのだが、これが何とも謙虚である。
自分の実力で皆を感動させ、のし上がったっと言う様なものではなく、家族や友人、恋人、歌のレッスンをしてくれたマエストロなど、周りの人の理解や助けが自分の支えになった事。
そしてパバロッティやズッケロがチャンスをくれたと言った感じの解釈となっている。
どちらかと言うと、周りの人達を立てている感じだ。
事実として、バーで歌うボチェッリにズッケロが目を付けなければパバロッティに歌声を聞かせる機会はなかっただろうし、パバロッティの口利きなしにはアルバムのレコーディングに漕ぎ着ける事も難しかっただろう。
しかし、紛れもなく実力でのし上がった歌手でありながら、物語の中では主役の自分を過小評価しているように思えてならない。
映画のレビューサイトでは、見せ場として歌のシーンが多く語られているが、ボチェッリ本人の吹き替えで歌われるのは大人になった後半からの数曲だけで、唯一エンドロールで流れるCon Te Partiròを除いてフルコーラスはなし。
曲がりなりにも音楽サイトとしてレビューさせてもらうと、歌のシーンは微妙である。
だからこそ、映画レビューサイトでは物語をもっと詳しく分析して欲しかったところであるが、逆に音楽しか語るところがないと捉える事も出来るかもしれない。
何故なら、私が見ても物語の構成は正直微妙。
思ったより感動も薄く、こんな事がありました。こんな事がありました。と言った感じにサクサク進め過ぎてストーリーがペラッペラな印象であるし、各シーンも巻き過ぎて不自然さが目立つ。
その割には、終盤でズッケロから依頼が入った後のデビューまでをダラダラと引き伸ばしている感じで、それをもっと序盤からやったら?と言ったもどかしさがある。
一連の流れとしてのストーリーは理解出来るのだが、各場面での印象があまりにも薄すぎるので、失明した時に母親が取り乱すシーンと、ズッケロのコンサートでステージへ出て行く時の盛り上がりくらいしか印象に残り難い。
何しろ、ボチェッリ本人が盲目のため、映画の各シーンを映像で確かめて監修すると言う事が不可能なので、自伝の本に書いてある文字をそのままただ映像にしましたと言った感じなのだろうか。
信頼、希望、そう言ったメッセージ性が強いのだと思うが、直接語りかけてくるような作品にはなっていないため、ボチェッリからの隠されたメッセージを掻き集める様に見て、自分なりの解釈をする必要がある点で難易度が高い。
ボチェッリは大好きだし、知らない人はこの映画を見ればどんな半生を送ってきたのか理解する事は出来るので、是非見て知ってほしいとは思うものの、映画としての出来はイマイチと言うのが正直な意見である。
キャストがそれなりに豪華な点が、過剰な期待を誘ってしまったせいだろうか?
脚本・監督:Michael Radford(マイケル・ラドフォード)・Anna Pavignano(アンナ・パヴィギャーノ)
音楽:Gabriele Roberto(ガブリエル・ロベルト)
キャスト:Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ)・Toby Sebastian(トビー・セバスチャン)・Luisa Ranieri(ルイーザ・ラニエリ)・Jordi Mollà(ジョルディ・モリャ)・Antonio Banderas(アントニオ・バンデラス)・他
タイトル:アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール(原題:The Music of Silence)
この手の映画は最近増えている様で、音楽の授業でも習う様なベートーヴェンなどの音楽家が映画化されているだけでなく、もっとポップ寄りなアーティストの映画も増えてきました。
イギリスのロックバンドQueenのボヘミアン・ラプソディなど物凄い話題になっていましたし、昨年はエルトン・ジョンのロケットマンなども公開、その他ボン・ジョヴィは断ったらしいですがオファーがあったと言う話もありますし、伝記映画とはちょっと違いますが、ドキュメンタリー寄りでメタリカの映画も撮影されるとかなんとか…。
そんな中、ちょっとオペラやクロスオーバーとなると、海外ではそれなりにシェアがあるものの、日本では凄くマイナーなジャンル。
アンドレア・ボチェッリの映画も公開されたら映画館へ見に行くつもりだったのですが、なんと地元周辺の映画館ではそこそこ大きな映画館でさえ放映されておらず、最寄りの映画館でも高速道路をぶっ飛ばして片道3時間は掛かる様な距離。
世界的に有名なテノール歌手ですし、今年はミラノの大聖堂で行った無観客コンサートのライブ中継で史上最大の同時視聴数を記録して話題になるなど、間違いなく世界的な人気は揺るぎないはずなのですが、日本ではこれほどまでに扱いが酷いのかと驚かされます。
こちらがアンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール。
アンドレア・ボチェッリは以前にも紹介していますが、イタリアのトスカーナ地方出身のテノール歌手で、幼い頃に失明しています。
私が記憶しているのは、当時弁護士の仕事をしながら夜のバーで歌っていたボチェッリを、ロックスターのズッケロが見付け、一緒に歌って作成したデモテープをルチアーノ・パバロッティに聴かせたところから彼の歌手人生がスタートすると言うものだが、自伝を基に作られたこの映画では、ズッケロの依頼でコンサートにゲスト出演して有名になると言った流れなので、後者の方が正しいのかもしれない。
かなりサクサクと進む映画で、省かれている部分も多い印象なので、ただ単に解釈の違いによるものかもしれないので何とも言えないところだ。
実際、ボチェッリの歌声に感銘を受けたパバロッティの口利きでSugar Recordsと契約を結び、1994年にデビューアルバム「Il Mare Calmo Della Sera」を発売してイタリア国内での知名度が急上昇したはずだからだ。
映画の中では幼少期に音楽の大会で優勝した設定だが、実際にはデビュー同年の1994年にサンレーモの音楽祭で優勝し、この時点でイタリア国内では誰もが憧れる歌手となっている。
そして後に、1997年発売の「Romanza」で2000万枚を記録する世界的な大ヒットを飛ばし、史上最も売れたイタリア人歌手としての地位を確立する。
これがアンドレア・ボチェッリ伝説の「実話」である。
まあ、映画だからね。美化してる部分があるのは仕方ないよね。って思うところだろうが、実はそうではない。逆である。
この映画は開始直後にボチェッリ本人が登場し、何やらブツブツと前置きを語り始める。
アモスと言う名前が好きだの、バルディと言う姓はトスカーナ地方ではポピュラーな名前だのと言ったくだりだ。
この物語の中では、アンドレア・ボチェッリの名前は登場せず、アモス・バルディと言う偽名が主人公の名前となる。
勘違いしないで頂きたいが、アモス・バルディはボチェッリの本名ではない。
アンドレア・ボチェッリがそのまま本名である。
まず、ここで偽名にした理由はボチェッリ本人にしかわからない事であるが、自分の物語と言う点に照れ隠しをしているのだろうか。
そして物語は幼少期の暮らしから、失明するまでの経緯、その後の音楽活動、挫折、そして再び歌手を目指すと言った流れが語られるのだが、これが何とも謙虚である。
自分の実力で皆を感動させ、のし上がったっと言う様なものではなく、家族や友人、恋人、歌のレッスンをしてくれたマエストロなど、周りの人の理解や助けが自分の支えになった事。
そしてパバロッティやズッケロがチャンスをくれたと言った感じの解釈となっている。
どちらかと言うと、周りの人達を立てている感じだ。
事実として、バーで歌うボチェッリにズッケロが目を付けなければパバロッティに歌声を聞かせる機会はなかっただろうし、パバロッティの口利きなしにはアルバムのレコーディングに漕ぎ着ける事も難しかっただろう。
しかし、紛れもなく実力でのし上がった歌手でありながら、物語の中では主役の自分を過小評価しているように思えてならない。
映画のレビューサイトでは、見せ場として歌のシーンが多く語られているが、ボチェッリ本人の吹き替えで歌われるのは大人になった後半からの数曲だけで、唯一エンドロールで流れるCon Te Partiròを除いてフルコーラスはなし。
曲がりなりにも音楽サイトとしてレビューさせてもらうと、歌のシーンは微妙である。
だからこそ、映画レビューサイトでは物語をもっと詳しく分析して欲しかったところであるが、逆に音楽しか語るところがないと捉える事も出来るかもしれない。
何故なら、私が見ても物語の構成は正直微妙。
思ったより感動も薄く、こんな事がありました。こんな事がありました。と言った感じにサクサク進め過ぎてストーリーがペラッペラな印象であるし、各シーンも巻き過ぎて不自然さが目立つ。
その割には、終盤でズッケロから依頼が入った後のデビューまでをダラダラと引き伸ばしている感じで、それをもっと序盤からやったら?と言ったもどかしさがある。
一連の流れとしてのストーリーは理解出来るのだが、各場面での印象があまりにも薄すぎるので、失明した時に母親が取り乱すシーンと、ズッケロのコンサートでステージへ出て行く時の盛り上がりくらいしか印象に残り難い。
何しろ、ボチェッリ本人が盲目のため、映画の各シーンを映像で確かめて監修すると言う事が不可能なので、自伝の本に書いてある文字をそのままただ映像にしましたと言った感じなのだろうか。
信頼、希望、そう言ったメッセージ性が強いのだと思うが、直接語りかけてくるような作品にはなっていないため、ボチェッリからの隠されたメッセージを掻き集める様に見て、自分なりの解釈をする必要がある点で難易度が高い。
ボチェッリは大好きだし、知らない人はこの映画を見ればどんな半生を送ってきたのか理解する事は出来るので、是非見て知ってほしいとは思うものの、映画としての出来はイマイチと言うのが正直な意見である。
キャストがそれなりに豪華な点が、過剰な期待を誘ってしまったせいだろうか?
脚本・監督:Michael Radford(マイケル・ラドフォード)・Anna Pavignano(アンナ・パヴィギャーノ)
音楽:Gabriele Roberto(ガブリエル・ロベルト)
キャスト:Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ)・Toby Sebastian(トビー・セバスチャン)・Luisa Ranieri(ルイーザ・ラニエリ)・Jordi Mollà(ジョルディ・モリャ)・Antonio Banderas(アントニオ・バンデラス)・他
タイトル:アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール(原題:The Music of Silence)
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